慣性の法則
驚くほどスムースだった。たった四日間乗らなかっただけなのに、ハンドルが滑らか過ぎた。サスペンションが路面の振動を丸く、けれど、遅れもなく伝えて来る。
最初にこの車に乗ったのは、もう10年近く昔。あの時と同じ感動かもしれない。
ほんの少し離れていただけなのに、この乗り心地が妙に嬉しくなるほど新鮮に思えた。
人は、慣れて行くと鈍くなるものだ。本当に良いものほど、失いたくないものほど、その日々に埋もれてしまうのだ。
今、ここで呼吸できるように、何の疑いもなく酸素があるように。
「でもそれが、私から少し離れた理由でも、言い訳でもないわよね」
少し不機嫌になった貴女が言う。
「まさか、違うよ」
正確には「少し違う」というべきか。心地よさに慣れてしまうからといって、貴女から距離を置こうと思ったりはしない。離れている時間をもったいないと思うのだから。
むしろ・・離れたいと思うときは、慣れてしまったからではなくて、近づき過ぎて貴女を見失ってしまいそうな時か、それとも・・
「それとも、何?」
それは言わない・・それに、言えない。何故なら、もう一つの理由があるとしたら、それは、貴女を忘れてしまいたくなったときだろうから。
何故、忘れたくなるかと言えば、きっと二つの理由のどちらかの時だと思う。キスをすることさえ切なく、辛くなり過ぎた時か、あるいは、心の底から嫌いになった時。
だから、言えない。どっちの理由にしても、貴女を失うことになる。失うことは怖くない。ただ、貴女が傷むことのほうが、失うよりもずっと辛い。もっともそれが自分への罰なのだろうけど。
「ねえ、それとも、の続きは?」
「もう一つの場合は、ちょっと意地悪をしたくなったとき・・かな」
大切なものを心地よさの余り、日々の時間に埋もれさせないために。