空中楼閣*R25

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本当の永遠は

 ある作家の小説の中に「神様とは蚊ではないか」という文章が出てくる。私達が一方的に嫌悪し、小さな怒り以外の感慨もなく、叩き潰してしまう蚊こそが神様の姿だというのだ。

 そして手の中で潰れた神様を見て、私たちは密かでささやかな達成感を得る。小さな復讐が日常の何気なさの中で達成される。

 罪悪感にも似た、ささやかな幸福を私達に与えてくれる。潰されても文句も言わずに、だ。だから、蚊こそ神様の姿なのだ、と。

 出先でのランチは、いつものインドネシア・レストランだった。クミンとウコンのスープにレモンスライスを浮かべて、サテとガッパオの辛さを口の中で中和していた。

 両隣のテーブルには、偶然だろう、どちらにも単身の老婆が座っていた。二人とも、片言の日本語を話す店の従業員とは顔なじみのようだった。なにしろ、座ったとたんに「いつもの、で、いいですか」と彼らは話しかけたのだから。

 しばらくして、右隣にも左隣にもバナナのフライとアイスクリームは運ばれて来た。右のテーブルにはトロピカルな花を挿した炭酸飲料が、左のテーブルにはビールが添えらていた。

「おはようは、何ですか」

 右のバナナフライを運んできたスタッフが、老婆に話しかける。

「グッド・モーニン」

 老婆が答えた。

「では、夜になると」
「グッ・ナイ」
「そうです、そうです」

 妙なアクセントの日本語で老婆を褒めて、笑顔で立ち去った。彼女は節くれ立った指でフォークを使ってバナナフライを切ると、歯の無い口へと運んだ。

 左のテーブルでは、「今日も忙しいねえ」と老婆が浅黒い顔のスタッフを捕まえる。

「はい。いそがしいです」
「いつも繁盛だね」
「は、ああ、はい、いつもね」

 繁盛の意味が分らないらしい彼も、笑顔で立ち去った。そんなテーブルに挟まれて、私は不意に「神様とは蚊なんだ」という文章を思い出したのだった。

 この世の中は、きっと全てとても何気ない、ささやかな事象の積み重ねで出来ているのだ。

 量子論が解き明かす宇宙の神秘とか、小難しい哲学とか、ややこしい財務諸表とか、嫉妬とか憎悪とか、愛だの恋だの、命がけだの、イカガワシイとかケシカランとか、そういう事もそんなに大仰に構えて口にするような事ではないのではないか、と思えてしまった。

 神様が蚊ならば、人は何だ。そんな人の営みには、何気ない時間がそのまま人生であるほうが正解だと思える。

 人の一生はこんなふうに暮れて行く。二人の老婆を視界の端で眺めながら、そう思った。

 さて、私はどんな夕暮れを歩もうか。