違和感で始まる七月
今朝の違和感は、なんだったのだろう。とき解くためには、ゆっくりと自分の思索を辿り直す。
発端は、こうだ。
世界中で「今日から七月だ」とネットに書いたり呟いたりする人は、きっと凄い数なんだろうな、と。
ちなみに午前10時に「今日から七月だ」とググると、24時間以内の更新検索だけで、一億四千三百件(重複あり)が十分の一秒でヒットする。見る間に今、百件増えた。
他の言語で検索すれば、きっと地球の人口を超えるだろう。
もう一つの出来事は、とあるブログの方がブログからの縁で、ある団体の非常勤になったという話。その方は、もと女性アナウンサーで今はフリーのライター。ある団体とは、「ふるさと活性化」のために某県出身の若い起業家達が立ち上げた団体。
ライターを誘った方は、その団体の副理事だった。
その彼の会社が、先月本社を移転し、その移転パーティーを彼は新社屋で行った。移転先の商店街から食事を調達、さらには商店街の方達も招待していた。
通常の業務だけでは関わらないような人とのネットワークを構築するのが好きなんだな、という印象だ。
実は私も誘われている。彼からではなく、他のネットワーク創りに少しだけ関わっている人からだ。が、どうも気乗りがしてない。
若い起業家、特に女性起業家は、異業種間のネットワーク造りに熱心なようだ。ネットワークを創ること自体が、そのまま仕事になっている感すらある。
例えば、食事会とかでは数々の食材や、その店に関する情報提供が、そのまま仕事になっていたりする。
さて違和感の理由だが。
世界中の人たちで「今日から七月だね」とか、「今日から八月だね」とネットで言い合うだけのネットワークを創ったら、もしかしたら、世界は今より平和になるかもしれない、とふと思った事からだった。
その思いつきの後で、酷く違和感を覚えた。ある企業のコマーシャルが脳裏に浮かんだ。
なんだ、この違和感は。そうなんだ。目に写る全ての事柄、身に起きた全部を、人の脳は取りあえずは感知する。でも、瞬時にして九割以上を捨て去るのだ。
つまり、今こうしてタイプをしている私の脳は、キーボードに書かれた英語の文字や、パソコンの隅にあるフォルダーの題名を無視している。目には写っているはずなのに、だ。
人と人との関係は、自分と自分の外界との関係の一部でしかない。それなのに「世界とつながっている」とあらためて意識させること自体が妙なのではないか。
人は世界の中で存在している限り、必然として世界とつながっている。魚が水とつながっていることが当たり前であるように、だ。
つまり、異業種だろうと、同業だろうと、ネット経由だろうと、人と繋がることを「意図的に意識する」事に意味があるのだろうか、という違和感なのだ。
まるで「馬から落馬した」ような違和「感」を「感じる」ザラツキいた感覚だ。
ただでさえ自分を取り囲んでいる世界を知覚しては捨て去り、意識へと昇らせるのは僅かな関係性の情報だけ。しかもそれを利用するとなると、もっと少ない情報なのだ。
敢て、無差別的に人との関係を「意図的に創り出す」意味が判らないのだ。
そんな事をしなくても、人は無差別にすれ違い、無意識に取捨選択する。それも、ほとんどは無視し、捨てるのだ。
と、ここまで書いて、違和感が解消できた。
つまり「意図的に関係を確認しないと安心できない人達」が「ネットという道具を使ってそれを満たしている」というだけなのか、と。
それを企業活動とか、地域貢献とか、レストラン紹介とか、という服を着せただけで、実は自分という存在への不安感からくる自己確認に過ぎないのだった。
不安感を着飾ったことに違和感を覚えたのだ。ファッションセンスの問題だった。
「不安だから、仲良くしましょ」と言えば良いのに、「ふるさとに貢献しましょ」とか、「異業種交流で人間性を高めましょ」とか言うから違和感を覚えるのだった。
そう考えると、「今日から七月」と言うのは、そこに集うよりも呟くだけの一方通行のほうが、ずっとセンスがいいのだと思う。
それにしても、私はあのCMに出て来る「デスクライトの緑色」が欲しくて仕方ない。
そうか検索すればいい・・「電気スタンド 緑色」
「バンカー・ランプ」というそうだ。「世界とつながっているって」こんな感じ。