空中楼閣*R25

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桜追い

 桜を追いかけるようにして迷い込んだ午後は、古い家屋の内装をアレンジした和食の店。古木のようなカウンターにひとり通された。

 追いかけてしまったのは桜の花弁のせいだけでなく、最初に見かけた桜が古くからの墓地の奥にあったからだし、迷い込んでしまったのは、墓地脇の路地へと歩き出したら、表通りの喧噪が嘘のような静寂の路地にそれはまた見事な桜がひっそりと咲いていたから。

 桜は大騒ぎの花見よりも静寂が似合う。苔むした墓石群の奥にすらりと佇むように薄染めを纏った桜の木は、私だけに妖艶な手招きをするようで腰が浮いてしまう。そのまま誘われて、綻んだ花弁を見上げ、手を伸ばして薄色に触れ、溜息をついた。

 遠くからの都会の喧噪は、いっそう静かさを際立たせて自分の足音だけの世界へと私は迷い込む。

 石畳を歩き、傷んだ舗装を歩き、四辻を幾つ折れたか忘れた頃に、曲がり角の向うに見事な桜の巨木が手招きをした。隣り合わせの道の雑踏の気配から逃れるように、桜へと向かう。

 寒緋桜、枝垂に薄墨、色香を追うようにして次々と桜を巡った。

 酒が頼めるかと尋ねると笑顔で品書きを見せてくれた。冷酒で純米酒を頼み、それから店のおすすめの十割そばをお願いした。

 背後を掠めて柔らかな香りが漂った。席を二つ空けて香りの主がカウンターに向かう。メニューを眺める間もなく野菜たっぷりのコラーゲン鍋を注文した。常連なのだろう。

 その彼女がすぐに鼻を啜り始めた。花粉症か。俯きがちの横顔は髪に遮られてしまう。揺れる髪の向うで遠慮がちに鼻を啜るのは、妙に艶めいた感じがするのは何故だろう。

 そうか、啜り泣くのと同じだからだ。そのまま息苦しそうな唇から切ない吐息でも漏れれば、それは彼女の秘密の表情になる。

 冷酒は「獺祭(だっさい)」という、仄かに甘く柔らかな山口県の酒だった。古民家の店のカウンターに女の鼻を啜る音が聞こえ、酒が胃の中で熱をもつ。

 くらりとする火照りを醒すように、おろしたの山葵を蕎麦にのせて口に運んだ。冷たい蕎麦と山葵の香り、十割そばに意識の揺らめきを立て直す。

 脈絡もなく、こんな言葉は浮かんだ。

 自分の存在意義を他人に求めてる間は、自分の価値すら揺らいでしまう。

 そうだ、自分のことは自分で決める。自分の価値も生きる意味も自分だけが決められる。

 それにしても桜と酒と、美女の啜り声と・・酔ってばかりの昼下がりだ。東京自由人日記に影響されたかな。