存在の曖昧さ
分別の果実を食べたから、人間は「考える葦」となり、我思うゆえに「だけ」が存在の拠り所になってしまった。
「おやじ、死んだ先ってどうなんだ」
バスタブの中から湯気に煙るクリーム色の天井を眺めて、ぼんやりと問うた。
「そっちには世界があるのか。教えてくれよ」
私の手のしたでは数百という命が旅立った。けれど、尋ねるとしたら、やはり他でもないオヤジに訊きたくなる。
自分が生まれて来る前の感覚が無であるように、死後が無であるとしたら、今は何のための今なのだろう。快楽や恋愛への欲望と、それを満たされた喜びと、それが満たされない苦悩は、いったい何のための喜怒哀楽だろう。
生まれ来る前が意味を持たないのであれば、死の世界には何も無いというのであれば、生きる苦悩と悦びを何のために背負わなければいけないのだろう。
分別をせずに、ただ生きればいいということか。背負う必要も、苦悩する理由も、悦びを惜しむ事も思い悩まずに、ただ過ぎ去る季節の風のように感じるだけでいいのだろうか。
そうするのが正解なのかもしれない。今、生きている事の前にも後にも、何も無いのだとしたら・・。
ただ、交わるという感覚の確かさだけは意味があるようにも思えるけれど、実は、そうでもないのかもしれないと、ふと気が付いた。
むしろ素直なままに交わる事、それ自体が「ただ感じる」事の悦びと苦悩を教えてくれている。後先が無意味な時間であろうとも、今を生きるという感覚、そのものを濃密に示してくれている。
そういう考えは、危険だろうか。今を永遠の長さに感じるよりも、永遠を今に閉じ込めるほうが、満たされる気がするのは私だけだろうか。
今を繰り返し、永遠をかき集めて生きるのは・・
「どう思う、おやじ」
分別という禁断の果実を食べなかったなら、人は永遠に満ちていられたのだろうか。考え、悩み、思い、迷うより「ただ感じる」ほうが良いのだろうか。