熱に憑かれて
あれはウイルス性の脳症だったのかもしれない。
高熱が出ると、自分が奈落の底に横たわっているように天井が遥か遠くに見えた。部屋のふすま絵が自分に向かって飛び出して来る。
幼い私は恐怖に泣きわめいた記憶がある。後になって母は「お前が、脳に異常を残すのではと随分と心配した」と教えてくれた。
そんな母の心配とは裏腹に、小学生ともなると高熱で見える不思議な距離感に、ワクワクとしていたのだった。
これは熱による幻覚だと自分に言い聞かせるだけで、襖の絵は飛び出しては来ても、自分を襲っては来なくなった。
遠くに見える天井だけが不思議で、何故だろうと片目で眺めてみたり、天井と壁の境界を見つめてみたりして、謎に迫ろうと好奇心で一杯になっていた。
だから、年に一,二度の高熱すらも、私には苦痛ではなく、不思議な世界を見せてくれる時間となった。
そんな頃から「人」という生き物の反応に興味津々になっていた。自分の反応もだが、異性の反応はもっと好奇心を刺激した。そのまま今に至っているのかもしれない。
熱は、人の感覚と意識を異空間、非日常へと誘う。
ヘソ曲がりの私が、カミュの「ペスト」ではなく、その隣りに置かれていた「異邦人」を手にしたのも偶然ではなかったかもしれない。
ラストシーンで主人公は、高熱のまま海の心地よさに浸り、沖に向かって泳ぎ出す。
きっと浮遊する感覚だったのではないか。肌がちりちりと敏感になって、海に溶けた塩の粒子を全身の皮膚で感じていたのではないか。
今になるまで、そのシーンだけが妙に印象に残っている。
風邪をひいて高熱を出していた貴女を、眺めが良く、空調が心地よいホテルへ呼び出したのは、何時の事だったろう。
熱のある舌を吸いながら、貴女を全裸にして肌触りの良いバスローブでくるんだ。そのまま広いベッドに寝かしつけて、ただ、じっと抱き寄せて添い寝をした。
貴女の汗がにじんで、二人の間に熱が籠っていった。時々、良く冷えたミネラルウォーターを貴女に口移しして、また眠った。
「なんか、嘘みたい。治った感じ」
急に明るい声がして目覚めた時には、窓の外は夕闇が迫る時間で、ビル群の壁が珊瑚色に染まっていた。
私は、貴女の胸に指を這わせ、汗ばんだ肌にキスをした。
「なんか、ダメ・・感じ過ぎる」
そんな言葉が最後だった。そのあとの貴女の声は、言葉になっていなかった。二人とも全裸で、汗まみれになって交わりに耽った。
空腹に気が付いたとき、夜がすっかり深くなっていた。キスをして、シャワーを浴び、夜の街へと出かけた。すこしだけ熱っぽいままで。