空中楼閣*R25

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静かな日々には

 この部屋にいると、月に数回、外の気配が消えてしまう朝がある。昔、「飛ぶ教室」という児童文学の本を、誕生日に買ってもらったのだが、この部屋は「飛ぶ部屋」なのかもしれない。

 外の気配が消えるといっても、部屋の二面には大きめの窓があり、人々の平穏な住宅に囲まれていて、窓から見える屋根の上には空だってある。

 その空は、澄んだ青空だったり、グレーの雨模様だったりするのだけれど、静かだと感じる朝には気配がないのだ。

 鳥の声はする。風の音もする。雨の日には雨の音もする。

 けれど、人の気配が消えてしまう朝がある。住宅街の朝なのに、通り過ぎるスクールバスも、ゴミ集取車も、人々の日常の雑音も、まったく消えてしまう朝がある。

 人々は、ばらばらに自由な意志で、自分のリズムで生活をしているつもりでも、実は、結構、同じリズムを刻んでいるのだと思う。

 一日の始まりの決まり事をし終えて、静かにする時間が、偶然にも、いや必然として一致した朝。この部屋で静かに呼吸する私すら、一緒に気配を消してしまうのだろう。

 人という生き物が、実は巨大な一匹の生命体で、個々の人間はアメーバーの触手の一本一本に過ぎないのではないか、と、そんな事を確信した時があった。

 あれは、通学の帰り道、昼下がりのバスに揺られていた時だ。

 同じバスの中に乗り合わせた人々全員と、何故か急に繋がっている気がしたのだった。

 人間関係に悩むなんで、まるで同じ手の親指と小指が喧嘩するみたいなものだな、と思ったのだった。最初からそれぞれの位置も距離も関係も、決まっているのだ、とも思った瞬間だった。高校生のときだった。

 そんな感覚に襲われながら、不意に泣きそうになった。

 彼の痛みは私の痛みでもあり、あの人の喜びは私の喜びでもある。そんな殊勝な考えが浮かんでしまったからだ。嬉しかった。

 でも、その前も、その後も、自分はずっと一本の指として生きて来た。他の指のことも、まして、手のひらの事も判らない一本の指として。