隠れ家にて
この歳になっても秘密の空間は、とても魅力的で、それは貴女との秘密と同じか、もしかしたら、それ以上かもしれない。
「酷いぃ。私はこのお店か、それ以下ってこと?」
しまった、また余計な事を口にした。
「ほら、男の隠れ家とか、秘密の時間とかって、雑誌でも・・」
「で、あなたはどうなの。私をどう思うの?」
「男の子ってさあ、秘密基地とか好きじゃない。オンナには教えんなよ、とかって言い合ってさ」
そう言いながら、山葵を適量だけ端先ですくって、小鉢一杯の月見とろろを糸削りの鰹節を零さぬように、ゆっくりと混ぜ始めた。無意識に現状から逃避している。
「そんな事、聞いてない」
チェスにしろ、将棋にしろ、手順というものがある、最初はポーンとか、歩を動かすものだ。なのに貴女と来たら、いきなりチェックメイト、王手を仕掛けて来る。
情けも容赦もない。切っ先を合わせる前に喉元への突きだ。
「一般論なんか、どうでもいい。私は何」
私は、白菜の浅漬けと一緒に角盆に載せられた冷酒に手を伸ばして、アルミキャップの封を回し切って、おもむろにグラスに手酌する。
「だからね。さっきの隠れ家の話は、一般論だよ。一般論」
「私より捨てがたいのでしょ。お気に入りのお店は」
咳払いを一つして、漬け物にも山葵をまぶした。山芋で滑った箸で白菜を口に運ぶ。
「うん。山葵を混ぜても上手いなあ」
冷酒を一口。
「返事は?」
「貴女と店を比べてないよ。貴女との秘密と秘密の場所とを比べただけで」
「私との事は秘密なんだから、一緒じゃない。そんなの言い訳よ」
現実の結果は同じでも、ニュアンスが大違いなのだが、そんな理屈は通用しない。
そもそも、次元の違うものを比較したがるのは男の遊び心なのだ、などと説明も出来ない。なにしろ、一般論の持つ説得力という唯一の利点すら貴女の前では意味をなさいない。
「ごめん、ごめん。比較するのが大間違いだった」
「なによ、それ。返事になってないし、ごめんは一回で良いの」
喉元に突き刺したままの剣を、貴女は抜いてくれそうもない。
「と言うかね、こういう誰にも内緒のいい感じの店で、貴女とこっそり逢うってのが最高だなあって意味だよ」
不満げな顔のまま、貴女が白菜を摘んだ。二、三回、口を動かしてから顔をしかめてから、冷酒のグラスを口に運んだ。
「やっぱり白菜には七味よぉ。茄子と胡瓜のワサビ漬けはいいけど。あ、それ、頂戴」
そう言って、月見とろろを指差した。
「いいけど、これは、蕎麦にかけようかなって」
「天ぷら蕎麦に?」
と、丁度、湯気を立てた蕎麦がテーブルに届く。
「先に、天ぷらを食べて、残った蕎麦に月見ごとかけようかなって」
「へえ、美味しそうね。私には?」
「半分、あげるよ。もちろん」
私は蕎麦汁を吸ったエビ天の衣を箸で摘んで、酒のあてにした。
「そっか、衣を酒の肴にするのね」
貴女が笑顔を見せる。
「冷えたお酒と熱々の衣の落差が美味しいよ」
「いただきまぁす」
どうやら、喉元の切っ先は外してくれたようだ。