空中楼閣*R25

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秘密の時間は

 隠れ家のような蕎麦屋で、天ぷら蕎麦と冷酒に月見とろろを注文した。

 店には私の他に初老の男性が一人、カレーライスを食べている。蕎麦屋のカレーというのも美味しそうだが、喫茶店のような野菜サラダまでガラスの器で付いている。

 蕎麦屋のカレーには大根の浅漬けか壷漬けだろう、などと独り呟いてみる。

 角盆に小瓶の冷酒、グラス、それに白菜の浅漬け、それからウズラ卵を浮かべたトロロの鉢に糸削りの鰹節が山盛りだった。山葵まで添えてある。

 まずは白菜に山葵をまぶして、冷酒をあおった。山葵も悪くない。月見とろろの鰹節を少し戴いて漬け物に載せた。なかなか美味しい。

 昼飯には遅い時間に、ゆったりと過ごす。

 この場所は私の隠れ家だ。最後に貴女を連れて来たのは、いつだったろう。去年の秋だったか、それとも夏の終わりだったか。山菜そばの頃だったかもしれない。鴨南蛮にはまだ早かったから。

 二階の座敷で、こっそりと交わったのは、もっと前だろう。貴女は薄いワンピースだった。

 それでもやはり、こういう場所は独りがいい。時間と味だけに向かい合える。

 箸の先でウズラの月見を崩さないように、山芋と山葵を混ぜた。山盛りの糸削りがテーブルに溢れる。

「はい、どうぞ」

 おかみさんが、天ぷら蕎麦を持って来た。

「最近、お連れの方、いらっしゃいませんねえ。これ、忘れものかと」

 細身の口紅を差し出された。「お二階に・・」

「ああ、そうですね。すみません。ありがとう」

 見覚えのあるケースは貴女のものだろう。受け取って、上着のポケットにしまいこんだ。はて、これを渡す機会は来るだろうか。

 私は、エビと茄子と舞茸の衣を箸で突つきながら思案する。濃いめの蕎麦汁で熱々の衣を口に入れて、慌てて冷酒を流し込む。

 うん、美味い。天ぷらを食べ終えたら、この月見をかけよう。半熟になったウズラがきっと美味しい。

 酒のグラスを置いた手で、もう一度、眺めようとポケットの中の口紅ケースに触れた。

 いや、止めておこう。しばらくは独りで秘密を味わおう。私は冷たい金属ケースから指先を離した。音も無くケースはポケットの底へと落ちていった。