染まる記憶
今年はいつになく燈台(どうだん)ツツジの真紅と公孫樹の黄金色が際立っている。楓や山モミジなのは立ち枯れてたように色合いが悪い。
季節の変化から紅葉は取り残されてしまったみたいだ。
そういえば、公孫樹の黄葉はもっと遅い季節だったような気がしたのだが、思えばもう11月も下旬なのだ。今年は気温が下がるのが遅かったらしい。
気づかなければ、私も季節から置き去りにされそうだった。
主人公も、ストーリーも忘れてしまったけれど、公孫樹並木の黄金色の絨毯を歩いて去っていく姿を、俯瞰で捉えていた映画のラストシーンだけが記憶に残っている。
あの映画はなんという題名だったのだろう。
その映画みたいに、公孫樹が黄金色になったら手を繋いで歩こうという約束をしたまま、果たせずに終わったのは誰だったのだろう。
そんな記憶すら、薄墨色になっている。
人は記憶で出来ている・・とはいうが、その記憶を溜め込むハードディスクの空き領域が人生とともに次第に少なくなって来ると、昨日のことまで忘れてしまうようになる。
余力の無いハードディスクを補うために、メモリーは頻繁に記憶を出し入れしなくてはいけないのだろう。だから、今朝のオカズの記憶すらままならない。
幼い頃は何でもかんでも詰め込めば良い。ハードディスクは空いているのだから。今は、そうはいかない。メモリーに書き留めて、選択して記憶しなければ、記憶を蓄える場所が少ないのだ。
かくして人は遠くの過去は覚えていても、近くの過去を忘れてしまう。だからこそ年を経るほど強烈な刻印を残さなければ、と思うのだろうか。忘れ去らないように。
若い時の恋と、年を重ねてからの恋とでは深さが違う。傍目にも燃えるような恋と、奥深くまで熱を孕むような恋。記憶ではなく、肌に刻む恋。
「後は死んでいくだけ。本当に楽しい人生だった・・彼はそう言ったのよ」
貴女は呆れ顔で私に言った。
「最近、朝目覚めると・・ああ、まだ生きていたんだ、と思うよ」
私は、そう貴女に返した。それからこう続ける。
「きっと彼、とても怖いんだよ」
だから、楽しかったと自分を納得させたいのだろう。もう充分だよと。
「あなたは怖いの?」
目覚めない朝を考えても仕方ない。だから私は考えない。それよりも、残り少なくなったハードディスクに何を刻もうかと思っている。
それが楽しみかもしれない。何故って、せっかく「パンドラの箱」に「予知能力」という「幸せ」を残してくれたのだ。未来を見通せないという幸せを。
だから、目覚めた朝がごく普通に楽しいのだ。
今年は、燈台つづじと公孫樹が鮮やかだ。またいつか、そんな季節に出会えるかもしれない。血のような真紅と煌めく黄色を、今は楽しもう。