揺れる視線で
視神経は100万個しかないらしい。つまり100万画素という粗悪なカメラで人は外界と接している。しかも網膜の真ん中でしか、色彩を感じないというお粗末さなのだ。
「でも綺麗に見えるわよ」
それは錯覚で、ほとんどは数秒前の映像と今の映像を勝手に合成してるだけ。だから、目に見える世界のほとんどは推測の世界なんだ。
「推測の世界なの。目の前のあなたも」
例えば、私の右目、瞳の奥をじっとみつめて、そしたら、瞳の奥に写るものしか見えないでしょ。視線は字の如く、一点を見つめる線でしかないんだよ。視野は、目に写る範囲だけど、そえはそれは粗雑な映像なんだ。
「なんだか、不思議。目の中を見つめるのって」
唇が近いね。
「触れようとしてる唇も推測で出来てるの?」
推測でキスはできないけど、でも、重ねようとするとき、目を閉じるから、推測でキスしてるんだね。だから、確かめ合うように唇を動かすのかもしれない。
「ねえ・・キスしたい。とても」
貴女のルージュの香りが、温もりに変わった。
「推測だなんて、嫌だわ」
「でもね・・」
「そんなの哀しすぎるもの」
でもね、と言いかけて、続ける代わりに唇をもう一度、重ねあった。
人の神経の伝達速度では、貴女の唇を感じるのに1/20秒かかってしまう。感じてキスを返すには、更にもう少し時間がかかる。
だから、貴女のキスはいつも少しだけ過去になってしまう。
次々に過去になってしまう唇の感触の追いつこうとして、キスを繰り返す。舌を絡めて、今の貴女を感じたいと思う。
互いの唇を濡らした後で、貴女が少しだけ遠ざかって、そっと両手を伸ばして私の頬に触れた。
「触れているのは今よね。今のあなたよね」
私は少し哀しい顔をしてしまう。
「あ・・そうか。そうよね。神経を伝わる時間って、一番早くても千分の一秒かかるのよね」
「おまけに神経から神経へと伝達するから、そこはもっと遅い。スポーツの測定が百分の一秒なのは、それより細かい時間だと人の感覚を超えちゃうかららしいよ」
貴女まで、悲しそうな表情になった。また、悪い癖を出してしまった。余計なことを言い過ぎる。
「見つめていても、目を閉じて感じても、100万画素と百分の一秒の世界でしか感じ合えないのね」
私を見つめる眼差しがゆらゆらと揺れて、潤み始めた。頬に触れていた貴女の両手が首の後ろへと伸びて交差する。
「やだ・・なんか、ダメ、そんなの」
しなやか身体が、私の腕のなかで熱くなる。
「五感に頼らなければいいんだよ。きっと」
時間が静止した。
「どうやって?」
「知ってるくせに」
「え・・」
片腕で貴女の腰を引き寄せた。
「交わればいいんだよ。深く交われれば、超えられる。そうでしょ?」
「ああ・・そうよね。そうだった。感じなくなるほどになれば・・」
深くなる程、感覚から自由になれるから。