ガラスの林檎
何となく抱かれることが男を繋ぎ止めておく唯一の手段だと思っていた。確信とかではなく、本当に何となく、恋愛関係とはそんなもので、それが世間一般の常識だと。
例えるなら、キスをされた時には、その唇が離れないうちにキスに応えなくてはいけないという、そんな感じだった。
別に抱かれる事が好きだったわけではない。ただ、抱き締められていることが嬉しかった。肌の温もりが好きだった。それ以上はどうでも良かった。
男の性欲は塞き止めておけるのが三日が限度で、定期的に吐き出さなければ体調が悪くなる、まるで三日で満水になってしまうダムのようだ、とまで半ば信じていた。
彼にキスされるまでは、そんなものだと思っていた。
触れられる前から濡れていた。多分、そう。ある女性作家の文章だったか、「その男は、服を脱ぐ前からセックスを始めていた」とあったけれど、その意味が今なら解る。
出会ったときに、もう私はすっかり抱かれていた。だから、実際に腰を引き寄せられキスをされた時、記憶すら曖昧になっていた。ふわりと、身体の力が抜けていた。
キスに応えたかどうかは、どうでも良くなっていた。唇から腰へと私を抱き締めたのは、自分の意識ではなく、彼そのものだった。
彼に抱かれる度に、自分の身体が自分の意志とは無関係に蕩けていった。
彼の指が肌から離れている時間が長くなるほど、私の身体はバラバラに解けて壊れてしまう。彼に触れられている時間だけが、蕩けた私を一つの生き物として繋ぎ止めてくれた。
男より女のほうがダムだった。溜まって決壊するよりも、雨のように注がれなければ枯れてしまいそうなダムだった。
「私、あなたに女にされて、女を育てられたの」
いつだったか、ひとしきり濡らしたベッドでそう言った時、喜ぶかと思った彼は少し戸惑う表情を見せてから、いつものように唇を重ね、私の中へ指を沈めた。
小さな疑問符は「あの時」産まれていたのだと、今になってそう思う。密かに受胎した生命みたいに、小さな種が植え付けられていた。
何事もなかったかのように、二人の時間は過ぎて行き、私の身体は果実のように熟していった。
彼なしでは腐ってしまうくらいに、彼のためだけに蜜を蓄えた。自分の肌から驚くほどの甘い香りが立ち、曲線が優しくなり、彼のすべてに敏感に反応した。
昇り続けた快感は、やがて、その絶頂で底なしの空間へと堕ちて行く感覚に変わった。
私は夢中で彼にしがみつき、痙攣し、蜜を吐き続ける自分を失うまいとした。
「全部、あげてもいい。彼に食べられてしまいたい。彼の中で永遠に生きていたい」
そんな事を漠然と考えていた。気付きは、それが理由とは判らないほど些細なことから降って来る。
「私は与えるだけかもしれない」
彼は、私に甘い言葉を囁かなかった。一度も私に彼を見せなかった。彼は、私を溶かしながら、自分を解くことはなかった。私の上でも、私の下でも、私の中でも。
リンドバーグ夫人の本が目に留まった。アン・モロウ・リンドバーグ「海からの贈物」のページを繰りながら、私は気が付いてしまった。
女は絶えず与え続けなければいけない。だから、時に空っぽになってしまう。空っぽにしないために、女は女であることを忘れてはいけない。自らを満たすための場所を日々の中に失ってはいけない。
彼は、私を満たしてくれているだろうか。私は、与え続けるだけではないか。
私は、一人になってみるべきかもしれない。だって、愛し過ぎて、苦しいままだから。私という女が枯れてしまいそうだから。
自分が乱したシーツに腰を下ろして、身支度をする彼を見上げながら、もう一度、こう言った。
「私、あなたに女にしてもらった。女を育ててもらった。女の喜びも、苦しみも、教えてもらった。でも、何もしてもらえなかった。そんな気がしてしまうの。だって、私、与えただけで、それで空っぽになってしまう気がするの」
彼は、黙ってネクタイを結びながら、私を見つめていた。それから、静かに私に近づいて頬に触れた。
いつものようにキスをして、そして、微笑んだ。
「何もしてあげられなかったね」
私は彼の教えられ、女を悟った。