天空の金華豚
水に囲まれた広大な緑が眼下に広がり、その遥か向うには高層ビル群が外輪山のようにそびえ立つ。
かつて結界を張ったといわれる都は、64年前のこの日、今日のような晴れ渡った夏の日に、敗戦を迎えたという。
正午を少し回った時間にシャンパンを掲げ、金華ハムを口にした。
皇居を正門側から一望出来る高層ビルの存在自体が、少し前には信じ難かった。保安とプライバシーの問題は、東京駅再開発という時代の波に押し流された。
あの日、人々の赤いくらいの涙を吸った二重橋前の砂利の広場には、僅かな人影をみかけるだけだった。
負けたら全てが終わりだという思想は、いつの時代からのものだろう。
美味を噛み締めながら、私は思う。あの日から目に見える戦争はない。けれど、負けたら終わりという競争は続いている。負けても立ち上がれば大丈夫、歩く気持ちがあれば報われる、という社会はまだ遠い。
日本人は、競争には向いてないのだろう。脱落者が立ち上がれない社会を、競争社会とは言わない。誰もがレースに参加出来る社会を、競争社会という。
金銭の格差は産まれるのは競争の結果であり、賞金だとは思うが、参加したい人が参加出来ないことが、心に闇を作る。
この街の誰もが守られるような結界は出来ないものだろうか。
終戦の日、皇居を俯瞰しながら、高価な広東料理を口にする。そんな日本人を、給仕する中国名の彼は、どんな心持ちなのだろうか。
彼の国の格差も理不尽さも、日本の比ではない。けれど、誰もが参加できるのかもしれない。失敗の数を誇るのが、彼の民族だと聞いた。
たどたどしい日本語で、彼がフカヒレ煮込みの説明をする。