混沌として曖昧に滲むもの
彼に言わせると「あご髭の男」は全部、あの俳優に見えるらしい。「長い髪の細面であの年齢の女」は、全部、あのアイドルに見えるとか。
まったく彼の顔の識別の能力ときたら、彼が覚えているカクテルの名前より少ないに決まってる。彼が銘柄で思い出せる日本酒の種類よりは確実に少ない。
きっと、私のことだって、過去に出会った女の「あの喘ぎ方」と「あの吐息」と、甘えた時の「あの声」と、逝く時の「あの表情」を寄せ集めてるんだわ。
「そんなわけないでしょ。貴女は貴女だよ」
そんな「わけ」はなくても、「そんな」の数のほうが気になってしまう。
「だって、この香りは貴女だけの香りだもの」
意識が甘くなってしまう。彼のキスの詳細は曖昧になって、快感だけを私の腰が感じ取る。
彼が思い描くのが過去の記憶からの組合わせだとしても、彼のキスを感じているのは、まぎれもなく私自身なのは判っている。でも・・ああ、腰が浮き上がる。
「可愛い声を出すんだね」
だって、そんなふうにキスされたら。声が出ちゃう。私だけの私の声。彼だけに聞かせたい声が。
助けを求めるように両腕を、拡げられた自分の膝の間に伸ばす。彼の髪が指先に触れる。引き寄せようか、どうしようかと迷う間に意識が霞んでしまった。
反らした背中ごと舞い上がった。全身が震え始める。
そのまま髪を後ろに引かれて落ちて行きそうになった。鋭い痛みが胸の先に走って、意識が呼び戻される。痛みはすぐに柔らかく鈍い快感になった。
彼の指が左右の乳首を摘まみ上げて軽く捻っていた。
「ああん・・」
震え始めていた身体が、はっきりと波打って曲げた膝が開いたまま先まで伸びる。しばしのトリップ。
引き潮のように遠退いていた呼吸が戻って来るのを待って、彼が顔を上げた。唇を私で濡らした笑顔で、無邪気に尋ねる。いつもみたいに。
「逝ったでしょ」
言葉では返せない感情が湧き上がる。
恋する気持ちに名前をつけてしまったら、きっと恋ではなくなってしまう。でも、恋がいつでも不安なのは、恋する心は名前を付けられない感情だからだと思う。
人って、名前のないものが怖いのだから。でも、彼の腕に居るのは、紛れもなく私なんだ。彼の記憶の断片ではなく、私の香りで彼を塗りつぶす。