愚問を自らに
小さな「予期せぬ終わりが」いろいろとあったから、自分の環境は変わりつつあるのかもしれない、と少し前に書いた。
言葉とは恐ろしい。文字となるともっと力を持つ。更なる終わりが、後に続いた。
また1人、恩師が世を去った。それも突然に。
これで私に道を示した母校の恩師は誰も居なくなった。彼らとの出会いが、今の私の道を作った。私は誰かに道を示しただろうか。
お世話になりました、と長年の世話になった方に挨拶をしようとした。その彼が、内密なんだが・・と私の両肩に手を置いた。
「実は、私のほうが少し先に辞めるんだよ」
何かが終わろうとしている。私の周囲で予期せぬ終焉が次々と起きる。
35才を過ぎた頃、人生は残りの半分となったのだと予期をした。けれども、それは実感とはならず、今までのように坂を登っているものと思ってしまった。
48才を過ぎてから、自分がごく自然に終焉の準備を始めていたことを、最近になって気が付いた。今は、坂道を下っている。
小説が終盤が難しい。演劇もエンディングが肝心だ。映画もまた、そして人生もまた。
終わり無き物語は未完となって、評価されるのだろうか。それとも結末を迎えられなかった事を、惜しまれるのだろうか。
だらだらとこの坂を下って行こう・・は、「パイロット・フィッシュ」、「アジアンタム・ブルー」を書いた大崎善生の短編集「孤独か、それに等しいもの」の一編だ。
「八月の傾斜」に続く物語のような、この文章を読んだのは、そうか48才の頃だった。
人は来るべきときに、準備を始めるのだ。それは、あたかも他の人から見れば、予期せぬ終焉だったかのように、映るだけなのだ。
けれど、私は何を準備すればいいのか。
人に道を迷わせたことはあっても、誰か一人にでも道を示しただろうか・・。ただ、「だらだらとこの坂道を下って」行くだけなのだ。