週末の午後
カウチに寝転がって、目を閉じていた。裏庭から老夫婦の会話、そして、隣りからも若い夫婦の会話。そんなふうに人は出会い、暮らし、年を経るのだ。
私は、無駄なような時間を過ごしていた。何をするのでもなく、何を惜しむのでもなく、無駄という時間が半ば心地よく、半ば無感情に流れて行く。
気だるさは、土曜の午後だからというよりも、ドロドロとした深海の高密度な海水の中で、水圧に心地よくつぶされてしまうような時間を、昨日、過ごしたからかもしれない。
何も考えずに、浮遊してきた餌だけにのっそりと食らいつく深海魚のように、手に触れる肌を抱き寄せ、撫で回し、粘膜を頬張り、交尾を繰り返す。
眠りと、性と、食欲と、ただそれだけのために、順序も計算もなく過ごした時間の余韻が、今日の午後、目を閉じた私の脳と肉体を弛緩させているのだ。
人は何のために生きるのか、と問われれば、即座に「悔いなき死を迎えるために」と答ている時のような、利発さも真面目さもなく。
人は何のために生きているわけでもなく、ただ、欲望だけに耽ればいいのだと、答えにも成らないものを口にする心地よさ。
所詮、時は無駄に過ぎるのが、理に適っているのだ、と、風のままに揺れる木々の葉を見ながら、独り納得するのだった。