相対という絶対スケール
時々、感情がすれ違うのは、仕方の無いことだ。何故って、私が刻む時間と貴女が刻む時間が、同じ早さに見えて、実は違うものなのだから。
人はそれぞれの時間に自分を浸さなければ生きられない。生きるということは、時間の流れそのものだから。
昔、瀬戸内のとある街に過ごした事がある。
時間がとてもゆっくりと穏やかに流れていた。人の歩く速度も、言葉使いも、笑顔もゆっくりだった。信号を待つ時間すら、苦にならないほどだった。
私が身にまとっている時間の流れが、ゆっくりになっていたんだ。
こちらへ戻ってしばらくは、ある種の時差ぼけのようだった。人の流れも、動作も、話し方も息切れがする感覚で、やがて信号待ちでイライラするようになると、周囲の速度が気にならなくなった。
そうして、私の時間はこちらの速度に同調したんだ。
多くの人が身にまとってる時間の流れが作り出す社会というリズムに影響されないことは難しい。
それでも、一人一人が固有の時間を刻んでいるのだと思う。貴女が見た紅い花と私が見た紅い花の色が、本当は同じではないように。
二人の時間を同調させるには、触れなくてはいけない。周囲の邪魔が入らないくらいに、敏感で繊細な部分で、深く触れ合うことで、互いの時間の流れを同調さえるんだ。
触覚は、そのためにあるのかもしれない。敏感な粘膜には、高密度な感覚器が備わっている。
唇を交わし、粘膜を感じ合い、粘液で相手を受け取って、二人は少しずつズレてしまった速度を、時間の流れを同じにするんだ。
だから・・週末にはキスをしよう。二人の粘液を交わして、互いの時間を重ねよう。