梅雨のあとさき
この居心地の良い語句を見いだしたのは、誰だろう。「梅雨のあとさき」に「トパーズ色の風」だと、最近、白い犬のお父さんに出て来る歌手になってしまう。
まさか、彼が最初とは思えない。が・・調べても判らなかった。「あとさき」には、順序が逆になってしまった、という意味から、前後の様子、あるいは、前後の事情という意味があるらしい。
となると、「梅雨のあとさき」の本来の意味は、「梅雨入りの前から明けた後まで」という長い時間を表していて、多分、五月終わりから七月初めまでか。
けれど、私はなんとなく「梅雨の頃のある時間」を想像してしまう。そして、その「ある時間に起きた事情の前後」を思ってしまう。
私が思い描く「梅雨のあとさきに起きた事情」は、朔太郎の綴った「愛憐」のように艶かしく、湿っている。
その詩「愛憐」は詩集「月に吠える」の「寂しい情慾」に綴られている。
けれど私の視界に見えるのは、女の白い乳房に塗り付ける青い草の汁ではないし、「蛇のやうな遊び」でもない。
薄紫から青紫までのとりどりの色をした小さな花鞠が目に浮かぶ。青い葉には、毒があって、そこを這う蝸牛もそれを食べたりはしない。
そう紫陽花だ。梅雨に濡れた青紫の紫陽花。決して赤紫ではない。
女の肌に塗りつけるのは、その小さな花びらにも似た青から紫のガクの色だ。濡れた青色を指の先で肌に塗り付けていく。
乳房ではなく、柔らかな腹に塗り付ける。穏やかだった呼吸が、肌を汚されて乱れ始める。大きく波打ち、時に、息を潜める。
「あ・・」
突然に声が漏れる。視線を移すと紅い唇が緩んで、白い歯と濡れた舌先が見える。
「はぅ・・あああ」
女が声を漏らす理由は、左の乳房にあった。紫を塗り付けた白い曲線から、息づく女の肩口へと、蝸牛が乳房を這い登っていた。
粘膜の黄土色の触覚を二本、そそり立たせて、少しずつ肌に噛み付くように頭を下げては、くねらせた腰を進めた。
きっと小さな歯形が女の乳房に並んで行くのだ。それが証拠に、蝸牛のお尻から銀色の唾液が糸を残しているではないか。
今にも、蝸牛は女の尖った乳首に噛み付こうとしていた。だから思わず女は声を漏らしたのだ。
冷たい滑りに肌理を強ばらせて、乳輪までシワを深くして、女が背中を草原から浮かし始める。
濡れた素足が真っすぐ伸びて、足爪の先まで力が加わる。
肌を紫に汚す私の指などおかまいなしに、女は乳房を蝸牛に捧げ始める。犯してください・・と。
耐えきれずに視線を伏せると、豊かな女の腰で、黒い飾り毛に霧のような水滴を無数に結んでいた。
私の「梅雨のあとさき」はそんな事情だった。あれは夢か、現か、望みか、痛みか。
届かぬ人なのか・・蝸牛にさえ、紫陽花の咲く季節には負けてしまう。私は乳房にすら触れることが出来なかった。