光の君
いつもより香水が強く感じられた。
匂いは人の心を強く揺さぶる。特に異性の香りは、人によって好みは極端に違うのだが、その分、抗えないほどの力を持っている。
なにしろ、自分の遺伝子と最も似ていない遺伝子を持った異性の匂いに、動物は惹かれてしまうのだから。
エスプレッソを半分ほど残して席を立った貴女が、椅子に座ったまま身繕いをしていた私の脇を擦り抜けた時、いつもよりも少し強めの香りを感じていた。
抗えないほどの心地よい肌の匂いには、それを強いとか、弱いとかという感性は働かない。ただただ、心地よいのだ。無性に包まれていたいのだ。
だから、貴女の香りがほんの少しだけでも強いと感じた時、自分と貴女との距離に変化が出て来たのではなないか、私は自身の心に恐れを感じた。
源氏物語の「光の君」が多くの女性と関係できたのは、無論、彼の社会的地位と血筋もあるのだが、作者も書いていたように、彼の匂いが異性を惹き付けたのだろう。
「女の怨霊ってどう思う?」
少し意地悪そうに貴女が私に問う。
「男の意地を感じるなあ。性懲りも無いというか」
カフェを出た後、どうにか見つけた呑み屋で京都産の濁り酒を飲んでいた。
「意地って、どういうこと?」
「だって、そうでしょ」
彼は自分が手にした女性が次々と、自分が招いたとはいえ女の怨霊に取り憑かれ悩まされても、性懲りも無く、次の女性を求め続けた。彼の関わった女性にとっては、最低最悪のオトコなのだが、それでも彼は情事を止めない。
もはやそれは「毒を喰らわば」のやけくそでも開き直りでもなく、多き恋のためなら地獄も厭わないという意地だったのじゃないかと思う。
子供から育てた「紫」ですら、抜け殻のようにしてしまい。晩年を寂しく孤独に過ごすこととなり、その上、我が子にまで怨念が付きまとう事になろうとも、彼は悔いることはなかったのではないだろうか。
ただ・・
「ただ、何?」
「作者が女だったからかなあ。最後に光の母の話題を出さなかったのは」
「どうして?」
「だって、光源氏が追い求めたのは、最初から最後まで母の面影だったのでしょ」
「そうか・・」
「マザコンには話を戻したくなったのじゃないかなと思って」
「まるで嫁姑ね」
「作者は主人公にほれちゃうからねえ」
「なるほどね」
「私も懲りないオトコだけどね」
「マザコンだしねえ」
「そうなのかな。あ、そうだ。今夜、泊まっていい?」
濁り酒を含んだ口の中で酸っぱかった。
「ダメ。絶対、だめ」
「だめ・・か」
そうだった。貴女にも怨霊が付きまとっていた。