冬を過ごす場所
この季節になると、昔に描いたこんな場所が恋しくなる。ハードディスクを探しまわって、ようやく見つけだした。
それにしても、あの店は何処で出会ったのだろう。とても居心地が良かったことだけを覚えている。ただ、少しだけ深酒をしていたことも思い出す。
そのお店のカウンターには、大きなガラスポットが小さなロウソクの炎で温め続けられていた。ポットの中では、中国茶が適温に保たれていた。
そんなポットの中の琥珀色を眺めているだけで、自分まで温かくなるような居心地の良い場所だった。
それが何処だったのか、何時のことだったのかさえも思い出せないでいるのに、その温もりだけが心に残っていた。
サンテクジュベリの「星の王子」さまは、自分の小さな星の煩わし日常に嫌気がさして、全てを投げ捨てて旅に出た。
我が侭な「薔薇」の花や目詰まりする「火山」、根こそぎ掘り起こさなければ星を壊してしまう「バオバブの木」。それは、恋人や友人との「人間関係」であったり、忘れがちな「温もり」であったり、油断すれば押しつぶされそうな「現実社会の目」のようなものであったり。
星を飛び出した王子は、水のある星、地球の水のない砂漠に舞い降りて、我が身も人生も遭難してしまった飛行機乗りに出会う。
そして「一番、大切なものは目に見えないもの」だと気がついて、言葉を残して目の前から消えて、「見えなく」なってしまった。
最近になって、一期一会の意味が本当に判ってきた。
この陳腐な言葉の裏側には、物事への執着と喪失への恐怖が潜んでいた。人は出会いに特別な意味を求めるあまり、手に入れたい、失いたくないと思ってしまう。
想いが募るほど、その欲望は切なく心を締め付けながら、相手との関わり方まで歪めてしまう。時は流れる、季節は移ろう。自分の心すら曖昧で、まして相手の心など思うようにはなってくれない。
だからこそ、変わらぬことを願うような執着や欲望を捨て、今、この時の関わりに全てを尽くすことが、大切なのだと、古人は教えてくれる。
やがてそれは永久になることもある事を信じながら、自分の人生を巡り逢う事柄に無欲に捧げる。それが、一期一会の意味なのかなと。
あの店にあったポットの温もりは、永久に私を温めてくれている。無私無欲、一期一会が、実は、永久への入り口なのだろう。
そういえば、「子供への母の愛は、悟りへの近道」と私の恩師は言っていた。