木の話
以前、創作した文章の中に「名前も知らない鳥が鳴いている」などとと書いた記憶がある。
実際、鳴き声から判る鳥といえば、鶏、カラス、スズメ、雲雀、鶯、それから百舌ぐらいかもしれない。それどころか姿を見かけても、名前を知らない鳥にほうが多い。
ホトトギスといえども、その単語だけは知っていても姿も鳴き声もすぐには思い出せない。
ほんの20分程度の散策の間に、武蔵野の面影が残る公園に入り込んで、揺れる梢に鳥の姿を見かけても・・ああ、オナガの一種かな・・ぐらいにしか判らない。
数ヶ月をかけて、ようやく「木」という本を読み終えた。何しろ読み始めたのが、五月だったから、半年がかりになった。
いや、何も難しい本ではない。各章が数ページのエッセイである。なのに時間がかかった。何故なら、木が思い浮かばないからだ。
文字が映像になると理解も早いのだが、映像を結ばないと私はその映像が気になって仕方ない。寝そべったソファーから身体を起こして、ネットなり図鑑なりを都度、調べれば良いのだが、それも億劫だ。
億劫なくせに、悶々としてしまう。
文章を追うことを止めて、あれこれと想像を始める。葉のカタチ、枝の張り方、幹の様子。記憶を探ったところで、脳裏に現れた木々が果たしてその木なのかどうかも判らないまま、文字を追う視線は宙吊りになる。
白州正子に「軽井沢にある旧細川邸の桂の並木は、落葉松の並木などとは品が違う」などと書かれては、時間ばかりが過ぎてしまう。そうして、また日が暮れる。かくして読了までには時間がかかった。
先ほど、ネットで検索したら、二秒ほどで細川邸の並木の画像に辿り着く。確かに凛とした木々の並木だ。
だか、品を伝えるような空気までは判らない。それもあって、その場では調べなる気にならなかったのだろう。実際、調べても得られるものは少ないのだ。ただの並木道と言われれば、そんな感じになってしまう。
ホトトギスの鳴き声などは、ネットで調べれば聞けることは聞ける。だが、木々の醸し出す空気は知ることは出来ない。
公園の背の高い木が、クヌギなのか、ケヤキなのか、カシなのかすらも判らないが、ずっしりとした木肌に触れていると、とても心地よい。
風もないのに黄色くなった葉が数枚、頭上から落ちて来た。見上げる間もなく、名も知らぬ鳥が声だけを残して飛び立った。
名を知ることは、必要なのだろうか。不要なのだろうか。