空中楼閣*R25

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罪なき人々の罪深き朝に

 覗き込んだ紙袋の中には、黄色に茶色の斑点をつけた紙工作の作品があった。多分、キリンだと思う。いや、もしかしたらヒョウかもしれない。

 その出来の悪さに、図工と体育が苦手だった小学生の自分を思い出した。

 クラスでは優等生と言われていたぶんだけ、苦手科目の時間は惨めだった。それでも体育はその場だけの問題なのだが、図工となるとそれだけでは許して貰えなかった。

 図工の作品は、上手い下手にかかわらず「平等に」教室の後ろに展示されていた。私には拷問のような陳列だった。

 満員の電車がぐらりと揺れた。その度に男の子は紙袋が押し潰されるのを両腕で必死に防いでいた。

 立っている私の腰の位置に黒いランドセルがあった。私も彼を覗き込むようにして、その貴重なスペースを維持するために微力ながら手助けをしていた。

 電車が止まり、煮詰まった乗客の気持ちを解放するようにドアが開いた。だが、誰かも降りる気配はなかった。

 一呼吸おいて、その小学生を挟んだ空間が抗う間もなく押し潰された。彼は大人の空間に埋もれてしまった。


 ドアを三回閉め直して、ようやく電車が動きだした。電車の揺れとともに私の前に少しずつ空間が戻ってきた。男の子は腕の中で潰れた紙袋を少し拡げて、俯いたまま動かなかった。

 キリンのような動物は無惨な姿になっていた。その黄色の絵の具の上にポトリと水玉が出来た。彼の小さな肩が震えだした。紙袋を持った手が拳を作るようにして、袋の口を握り潰した。

 私は、どうして良いのか途方に暮れてしまった。周りの大人は皆、彼に背を向けていて、自分の立ち位置を確保するのに精一杯だった。声をかけようにも、屈み込むこともできなかった。

 自分と隣の女性のコートの隙間に右手をなんとか滑り込ませて、ズボンのポケットからハンカチを引きずり出した。

 俯いていた男の子と紙袋の間にハンカチを差し出すと、男の子の震えが止まった。彼は顔を上げないままハンカチを受け取って顔を拭っていた。


 電車が減速した。もうすぐ終点の駅だった。

 ようやく顔を見せた彼の目は真っ赤になっていた。涙と鼻水の染みがついたハンカチを私に返そうとしたときだった。突然、女性の声が浴びせられた。

「貴方でしょ」

 私の右側で背を向けていたコートを着た若い女性だった。男の子と私が呆気に取られている間に彼女は続けた。

「この人、痴漢です」と誰にともなく宣言すると、私に向き直って言った。
「さっき触ったでしょ」
「触ってませんよ」

 やっと事態が飲み込めた私は反論した。が、すでに遅かった。駅に着いて電車のドアが開くととともに、片腕を彼女に、もう一方の腕を近くにいた男性に捕まれて、ホームへと引きずり出された。

 乗客の整理にあたっていた細身の駅員に、別の男性が事情を告げていた。私は反論したが、幾人からか罵声を浴びせられた。

「みっともないぞ」
「せめて男らしく認めろよ」

 もやは見せ物だった。

 私がハンカチの件に気付いたのは、駅員二人に両脇を挟まれて事務所へと連れて行かれそうになった時だった。

「ああ、判りました」

 なんだそんな事だったのかと、我ながら可笑しくなってしまった。だが、事態はもっと悪かった。

「やっと認めたのね」と女性が憎々しげに言った。
「いえ、違います。私は泣いていた小学生にハンカチを貸しただけです」

 女性にではなく、駅員にそう言った。

「ポケットから取り出すときに勘違いされたのですよ」

「いいえ、そんなことないです。触りました。それに、そんな小学生いなかったでしょ」

「まあまあ、お客さん。言い分は事務所で聞きますから」と、応援に駆けつけほうの駅員が腕を引っ張った。

「嘘じゃない。馬鹿なこと言うな」

 全ての事情がようやく判った。誤解だ。しかも善意でしたことなのに。私は語気を強めて、腕を振り解こうとした。それが逆効果だった。暴れるのだと思われたのか、駅員二人も私を抑え付けにかかった。

 ホームの人集りが増えた。今にも加勢しようかという雰囲気もあった。


 自分の身が信じられない事態に直面すると、他人事のように感じるものなのだろうか。妙に冷静に周囲を見渡せた。だが、あの小学生の姿はなかった。

 半ば、諦めた。諦めたはいいが、新聞紙面の僅か数行のニュースが頭を過ぎった。その数行で人生が壊れてしまった人のことを思った。そしてそれが、私の身にも起きたのだった。嫌だ。冗談じゃない。

「嫌だ。違う。私は何もしてない」

 取り巻いた人々の間から、軽蔑の囁きと怒りの眼差しを感じた。こんなことで人生は終わってしまうのだろうか。

 腕を取られたまま、俯いた。ホームの床に汚れたガムが張り付いていた。悔しさと情けなさで目頭が染みて来た。

 突然、ハンカチが視界を遮った。

「ありがとうございました」

 小さな手が差し出されていた。あの男の子だった。私に染みの付いたハンカチを渡してから、小学生はランドセルが落ちてきそうなほど深々と頭を下げた。

 彼は、頭をあげると用事が一つ済んだような顔をして、さっさと人混みの中へと駈けだしてしまった。

「誤解だったみたいですね」という駅員の声や「でも触ったんだから」という女性の声が遠くに聞こえていた。

 止まっていた空気が流れ出して、雑踏に飲み込まれていった。

 駅の事務所で話をする前に、コートの女性は立ち去ってしまった。私だけが駅員とその上司に事情を話して事は終わった。事務所から出るときに、細身の駅員が「災難でしたね」と声をかけたような気がした。

 改札に向けて歩き出した私は、ホームの脇のゴミ箱に見覚えのある紙袋が捨ててあるのを見つけた。

 足を止めて、一つ溜息をついてからゴミ箱に近付いた。男の子の紙袋だった。中には潰れたキリンがいた。

 私は、そのキリンをこれ以上壊さないようにそっと取り上げると、急ぎ足で改札へと向かった。


 もう少しで失うところだった職場の、私のデスクの上に継ぎ接ぎのキリンが居た。

 あの朝、改札を抜けてから、そこにいた駅員に男の子の制服の特長を話して彼の小学校を突き止めた。

 図工の授業に宿題を持ってこなかったことを叱られるのでは、と心配になったのだ。「彼は悪くないんだ」と証言しなくてはという気持ちになっていた。

 だが、結局はそうしなかった。彼は、自分でこのキリンを捨てたのだ。キリンを作る労力ごと駅のゴミ箱に捨てたのだ。

 小学生の頃の私と同じように、工作が上手ではないだけに作るのには苦労しただろう。その苦労ごと満員の電車で押し潰された。

 だから彼はキリンを、きっと投げつけるように捨てたのだと思う。

 自分の一部を捨ててから、彼は人集りを掻き分けて、前へ出た。そして私にハンカチを返してくれたのだ。そう思い至って、私は小学校に連絡をするのを止めた。
 
 自分があの男の子だったら「苦労した作品が潰れたので捨てた」という事を誰にも知られたくはないだろう。知られるくらいなら、忘れたことにして叱られたほうがいいと思う。

 まして、潰れたキリンを展示されたくもない。作り直す機会を貰っても辛いだけだろう。

 彼にとっては、電車の中の涙とともに、もうキリンを捨てていたのだ。そして私は彼にハンカチを貸し、彼はそれを私に返した。それだけのことなのだ。

 私にとっては、痴漢行為だと疑われ、その疑いが晴れた。それだけの出来事だった。あの女性にとっても、私を引きずり降ろした見知らぬ男性にとっても、罵倒した人々にとっても、それだけのことだったのだ。


 誰だって、ボタンを掛け違うこともある。もちろん、取り返しのつかない掛け違いもある。ともかくキリンは私のデスクの上に居た。ここが相応しいのだ。