欠落する世界
あれは10年以上も前のことになる。以上だと言っておけば間違いないけれど、平成何年のいつ頃だったかと言われると、私は途方に暮れる。なにしろ、父親の命日どころか、亡くなった年も憶えていない。
だからといって、殯(もがり)が済んでいないわけではないと思う。
きちんと私の中で父は亡くなっている。なにしろ、時々、心の中で会話するくらいなのだから。父が生きていた時にはそんなことをしなかった。
医学の最先端では、心の病が実は脳の構造と関連していることが判って来ている。
つまり、心配性な人、パニックに成り易い人、ストレスがトラウマに成り易い人は、それぞれにそういう脳の構造になっているか、もしくは、そういう構造に脳が変化していくらしい。
構造が変化してしまうのは、その部分を過剰に使うか、使わないでいるか、というのが原因かもしれない。まるで筋肉と一緒だ。鍛えれば肥大するが、使い過ぎれば痛んでしまう。もちろん、使わなければ痩せて行く。
脳も筋肉と同じなのかもしれない。
青酸カリ中毒の人の呼気には、特有の香りがあるという。アーモンドのような香りなのだが、その香りを感じない人達がいる。遺伝子の関係と言われているが、五感が他の人に感じるものを感じないのだ。
目でいえば、盲点のようなもので、感じないのだから気づきようもない。
人の脳は、他の人が感じているものを感じないという性質を、時には持ってしまうのだ。
いったい、私が感じている感覚を何人が共有できているのだろうか。ベコニアの花の赤色、小菊の黄色は、本当にその色なのだろうか。欠落してるものを知る術も無い。認識できないのだから、無理もない。
私の脳は、過去を順序良く並べられない。自分の生育という物差しを一々持ち出さなくてはいけない。それでも、なかなか難しい。
もう一つある。人の顔を識別しづらい。多分、今や電子機器のほうが私なんかより、ずっと人の顔を識別できるだろう。
自分の欠落は、かなりの損失を受けてから出ないと気づかない。今まで、何人をどれくらい深く傷つけて来たか、ということすら、気づいてはいない。
まるでキスをしたことのない人が、恋を語るように。失恋を知らぬ人が、永遠を語るように。
静かな雨の朝だった。
雨の日を好きになったのは、いったい、いつからだろう。こんな私には、それがいつからか判るはずもない。もしかしたら、雨の表情まで憶えている人もいるかもしれない、というのに。