51回目の夏至
こうしたい、ああしたい、と思いながら、結局、あまり動かないままに五十一回目の夏至を迎えた。
人生初めての夏至が、生後六ヶ月だと思うと妙な気分にもなるし、51年と6ヶ月を何とか生きてきたなあ、と感慨も湧く。
冬至は太陽が生まれ変わる日で、ある意味では一年の区切り。昔は、誰もが冬至から正月で年齢を数えたのは、そのせいである。
冬至と夏至で自分の人生を区切るのも、なんだか宇宙の動きとともに生きているようで粋な感じがする。
冬至はカボチャと柚子湯、夏至は・・と、調べてみた。蛸を茹でて食べるとか、鯖だとか、饂飩だとか、あるいは無花果を田楽にして食するとか。
この半夏生(はんげしょう)という語感は、なんだか私には官能的に思えて仕方ない。
同じ名の植物の姿もまた艶っぽいし、天から毒気が降るから井戸に蓋をするとか、野菜は控えなさいとか、はんげという妖怪まで彷徨うようだから、なんとも妖しい季節だ。
まるで蒸し暑い午後の、名も交わさぬ情事のあとに、汗に滲んだ化粧を直す女性のようだ・・半夏生。
51回目になって、そんな事まで思うようになったのは、良いことか悪いことか。
それはともかくとして、妄想から創作へと何か心に響く語彙があれば、そちらへと動くのは、きっと最初の夏至のときから身についていたのだろう。
今日だって、すぐに浮かんでしまう。例えば、こんな具合に。