聞きながら
貴女から貰った「雨音」という名のコーヒーが、まだ冷凍庫の中にある。心がざらついて、どうしようもなくなると、私は「雨音」を淹れる。
柔らかな香りの優しい甘さが口に広がる。
この世界では五秒間に1人が人生の幕を引く。その内の僅かだけれども、唐突に呆気なく訪れる幕引きに立ち会ってきた。
当事者達の都合とは無関係に、あまりにも突然に、気まぐれのように訪れる幕引きばかりを日常としていると、人生の意味を感じとれなくなっていく。
だから、というだけの理由ではないが、私はその現場から身を引いた。
それでも死は呆気なく、無作為に現れるもので、それが当たり前だと思ってしまっている。
そう、不慮な幕引きは私の日常に存在している。
だから、人は死ぬために生まれて来るとか、死後の世界は生まれ来る前と同じ世界だ、などと、思ってみたりもする。
あまりにも相手が圧倒的すぎて、怖さとか、不安などもない。何しろ、お手上げなんだから。
そもそも、生まれ落ちるということは、同時に死を待つということなのだ。明るさを求めて、影を忌んだところで、それは矛盾どころか初めから間違っているのだから。
だからこそ今を、とか、常なる日々を、とか、とも思わない。
肩に力を入れたところで、何が動くというものでもない。幕引きが大団円で感動、感激の嵐となるわけでもなく、まして、だからとて当の本人には知るよしもなく、呆気ない。
別に刹那主義でも、投げやりでもない。
ただ、淡々と雨音を聞くように日々を過ごせば良いではないか。剥きになって自分の存在を人の心に刻んだところで、それは後の祭りで知るよしもない。
キリストは、仏陀は、今を知っているのだろうか。不死ではない、人だったのだから。
美味しいと思うものを欲も張らずに口にして、心地よいと思うものに許される時間だけ耳を傾け、滞りのない日々を過ごせれば、それで良いのだと思う。
今は、そういう時間の中に在る。