美という痛み
オオオニバスは、二夜だけ大きな花を水面に開くらしい。ラジオでそんな事を言っていた。
丁度、「痛みが美に変わるとき」の松井冬子がゲストだった番組の後のプログラムだったから、余計に感じ入ってしまった。
痛みが美に変わる、のではなく、美は初めから痛みを内包しているのだ。
・・大鬼蓮は夜だけ二日間、花を開くのです。一日目は白い花を開いて、蜜の匂いで虫を誘います。朝になると花びらを閉じて、誘われた虫を閉じ込めて受粉を行わせるのです。
・・受粉が終わった花は、二日目の夜、ピンク色に染まった花びらを開きます。虫達を解き放ち、朝になると再び花びらを閉ざし、静かに水の中へと沈むのです。
二夜だけ水面に花を開き、蜜を放って虫を誘う。
誘われた虫を花びらに閉じ込めて、受精をさせる。花は白から桜色に色づいて、次の夜、花びらを開き、虫達を解き放つ。
そして、その朝、静かに水の中へと沈むのだ。
闇の中、水面に開く大輪の白。匂い立つ妖しさが虫達を誘う。蜜に溺れ、花粉にまみれた虫達は囚われたのも知らずに、受粉に使役する。
閉じた蕾が受精の火照りに染まり、夜の闇とともに花びらを開き、虫を放って、夜明けとともに水に没する。
なんとも、妖しく官能的な生と死の営みだろう。閉じ込められた虫達の、蜜の甘さに酔う哀れと蓮が企む生殖、そして潔い花の死を彩る花色の変容。
そこにあるのは、性の企みと痛み、生の哀れと美しさ。
純白から薄紅への美しさは、命の痛みなくしては艶めかない。性も生も・・命そのものは表裏のように痛みを伴い、その営みは美しい。
痛みが美しさに変わるのではない。美は、痛みとともにある。